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結婚するまで殆ど家の手伝いはしませんでした。 
学生のときは、学生であることが免罪符となり、 
仕事を持ってからも、 
机に向かってしなければならないことの方が優先されました。 
 
お料理やお裁縫やお茶だのお花だのというのは、 
お稽古事としてちょこっと触れたに過ぎず、 
そんなものは、結婚という独立独歩には微々たるほどにしか必要ありません。 
 
結婚するということは、自分で生活をすることであり、 
自分と違う価値観を持った人と歩んでいくことであり、 
世間に対しても、責任を負うものであります。 
 
自分がどういう価値観を持ってどういう生き方をしようとしているのか、 
相手の価値観や生き方をどう認め、自分との矛盾にどう付き合い、 
二人がどこを向いて、どう生きていくのか、 
それをちゃんと見つめた上で、やっと自立、ということになるのでしょう。 
 
無宗教の人が多い日本では、世間というのがある種、善悪の基準を示し 
それが自我の基礎になることもあったし、 
生き方というのは、世間から家へ、親から子へ、と伝えられていました。 
それが、いつのまにか、隣り近所の付き合いや慣習などが、 
古臭いもの、面倒くさいもの、社会の成熟を妨げるものなどと見なされ、 
メディアによって流される西洋型のライフスタイルが、 
もてはやされるようになってきました。 
合理性や効率性、利便性が優先され、 
かっこ悪いか、かっこいいか、ダサいか、ダサくないか、 
そんなものが価値基準の中にも現れてきました。 
 
親には甘えるばかりで、何ひとつ学ぼうとせずに成人し、 
ままごとのように結婚生活を始めた私も、そんな価値基準を持ち、 
世間の中から2人だけ切り離してるんるんしているような、スタートでした。 
 
姑と一緒に生活するようになって初めて、 
先輩の生き方から学ぶということを意識しました。 
それは、最初は「HOW TO・・・」のような、 
こと細かい生活の智慧のようなものでしたが、 
こうやって長く一緒にいると、彼女自身の生き方を見ていることこそが、 
自分自身にとってとても大事なことだと気がつきます。  
 
人は誰でもきっと、 
自分の価値観だけで、自分のペースで、毎日の生活ができたら快適なのでしょう。 
どんなにいい人であっても、自分の親でも、いや、ときには夫でさえも、 
「そこに誰かいる」ということ自体が、乱暴に言ってしまえば「鬱陶しい」のです。 
親や、ましてや姑は、小さな世間です。 
一緒に暮らしていくにはストレスになることもあり、快適なことばかりではありません。 
 
でも、価値基準、モラルや礼儀、善悪、他人の理解、受容、といったものが、 
自分の中から自分に都合のいい形で派生するのではなく、 
世間とのつながりの中から生まれ、修正されていくのだということを、 
小さな世間との暮らしの中で知らされます。 
 
姑と暮らすことは、少なくとも私自身にとっては、 
生きていくことに対して、わかった気になって、 
ときに、舐めて、傲慢になってしまうときに、 
謙虚になるように警鐘を鳴らしてくれるような気がします。 
 
先輩たちの世代を踏襲していくことがすべていいとは限りません。 
新しい風が吹かなければ、社会は進化してはいきません。 
これもまた、真実です。 

でも、様々な人と出会い、いろいろな葛藤を通して感情的な経験を重ね、 
そうやって人は成長していくものならば、 
大家族が崩壊してしまったことは、 
子供にとってだけでなく、まだ成熟していない大人たちにとっても、 
もしかしたら、もったいないことなのかもしれません。 
 
 

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ぼく達も先輩から学びました。
マイクとフラン




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ぼくも先輩から学びました。
シュヴァルツとび~ぼ

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2010.06.26 


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