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3月の診断から今まで、けっこうな日にちがあり、
出口は見えてきたとはいえ、色々と考えます。
皮肉というのか、因果応報というのか、
やっぱり避けては通れなかった人生というのか・・・・
私は、本当は、女性性というものをひどく重たく感じていました。
女性だから求められることにうんざりすることもありました。
もちろん、それは男性性でも同じで、
男性だから求められることの重さにうんざり、という場合もあるでしょう。
だから、女性に生まれたことの不自由さを自分で感じていても、
かといって、では男性に生まれていたら解消されたのかというと、
やっぱりどこかで別の不自由さを感じたことでしょう。
また、この人生において、保留にしていたことが、
いつの間にか見て見ぬふりになっていました。
このまま一生、無視して人生を終わらせられるのかと思っていましたが、
この歳になって意識せざるを得ない状況になりました。
胸なんか、要らないはずでした。
病気になる以前から。
生身の自分、生身の人間、というものを嫌悪している所があり、
大人になるにつれ、生々しい現実、生身の自分に直面する事が苦痛で、
それは何に起因するのだろうとカウンセリングも受けたりしました。
それが、歳を取り、おばさんになったら、女性としての生身感が薄れて、
周りからもそう見られなくなることに安ど感を覚え、毎日が楽で、
何故自分はこうなのかという謎解きにもいつの間にか興味を無くしていました。
社会的位置づけにおいての女性の自分も不自由、
生き物としての、生身の自分も嫌悪。
そういうものはいつの間にかオブラートに包んで
すりガラスの向こうに追いやり見ないふりをしてきました。
とはいえ、年頃になればお化粧をし、
歳を重ねてほっぺが重力に負けるようになればため息をつき、
女性しか身に着けないパンプスやワンピースなどを新調して
ご機嫌になったりもするのですから、
反面、現実的にはちゃんと女性を生きてはきたのです。
生物が生きるための攻撃性や残虐性、
人間が頂点に立ったゆえの堕落や享楽、果てしない欲、
多分、この世の真実は生々しいものであり、
そういう生々しいことが、本来、生きる、生きているということなのでしょうが、
人間でも動物でもなく、男でも女でもなく、生も死もなく、感情もない、
何者でもない自分が、ファンタジーの中で生きるがごとく、
ふわふわとただ時間軸を漂っていけたらどんなにか良いでしょう。
胃がんでもなく大腸がんでもなく、なぜ乳がんなのだろう・・・?
こんな私なのに、
そうするのが当然のように胸の再建を希望したのはなぜだったろう・・・?
直視せずに逃げ続け、絵空事で弄ぶのではなく、
生身の人間である自分、女性の自分に対峙しなさいよというお告げなのかもしれません。
女性に特化した身体の部分を、さてどうしますか、という宿題なのかもしれません。
身体の左右のバランスとか、ジムで他人の目を気にするとか、
多分、そういった単純なことから派生した心持ちであり、
失う自分の身体への愛着とは違うし、ましてや女性としてという感情とも違う気がします。
それでも、検査、病気の診断、治療と、
まさしく生の肉体を直視せざるを得ないこの一年でした。
天が私にこの病気を与えたわけもそこにあるのかもしれません。
2016.05.16 ▲
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