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だんだんに体力がなくなりつつある言葉たちの中には、
「敬語」もあります。

「今の若者は敬語が使えない。」
大人たちは嘆きます。
また、天に向かってつばを吐いています。

彼らが敬語を使えないのは、当たり前のことです。
彼らが育ってきた環境の中で、
生きている言葉として、敬語を耳にしてこなかったからです。

かつては電話は大人の通信手段であり、
「相手に失礼だから、子どもは電話を取ってはいけない。」
と言われました。

かつての大人たちには、相手との間に距離がありました。
公の部分と、私の部分の区別が当たり前だったのでしょう。
そして子どもたちは、日常の中で、
公の部分の大人たちも目にし、耳にすることができていたのです。

英語でも敬語表現は過去形を使います。
つまり、やはり、相手との間に距離を作るのです。

昔は人の中に階級があり、その中で苦しんだ人たちも大勢いました。
それがみんな平等になり、それぞれの価値を認め、いい時代になりました。
でも、みんなが平等だということと、相手に敬意を払うということとは違うのに、
いや、むしろ、相手を認めるからこそ、敬意を払うはずなのに、
敬語は体力を失って、ぜいぜいしています。

カジュアルな表現というのは、相手との距離が縮まり、
すぐに親しくなれるような気がします。
敬語を使いすぎれば、堅苦しく、相手との関係も硬くなります。

でも、本当にそうでしょうか。
敬語を使いすぎると距離を感じる、
そう思い込む社会、カジュアル社会を作ってしまったのではないでしょうか。

そして、それは悪いことなのでしょうか・・・

今では、電話は大人たちにとっても、友達とのおしゃべりの道具になり、
子どもたちは自分のおしゃべりに携帯電話を使います。
昔は距離があった人たち、
たとえば、学校の先生や、お医者さん、駅員さん、お店の人、とも
大人たちは距離を縮め、カジュアルな言葉でコミュニケーションをします。
大人が作っているTV番組も、カジュアル言葉です。
子どもたちが大人の公の言葉や、敬語を聞く機会は殆どありません。

ならば、いずれ敬語が死んでくのは、当たり前です。
死んでいくべき言葉になっていく方が自然で、進化なのかもしれません。

カジュアル社会を大人たちはどう思っているのか・・・?

そんな社会が歓迎され、進化の過程であるとするならば、
子ども達に昔ながらの敬語を教え込む必要はありません。

カジュアルな社会に眉をしかめるのならば、
大人たちこそ、日常の中でもっと敬語を使いこなさなければなりません。



「『行く』の尊敬語は?」
「いらっしゃる」

「『言う』の尊敬語は?」
「おっしゃる」

「『食べる』の尊敬語は?」
「食べっしゃる」

「『来る』の尊敬語は?」
「来っしゃる」

そう答える子が増えてきました。


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以上は、関東で生まれ育ち、今も関東に住んでいる私の雑感ですが、
随分前に、転勤で短い間関西に住んだことがあります。

「はる」というのは、敬語表現だと思うのですが、
幼稚園ほどの小さな子どもまで、「何してはるのん?」という言い回しが当たり前に使えます。

関西と言っても大阪、神戸、京都では、言語体系が違うのでしょうが、
「はる」こそ、子どもが大人たちの言葉を聞いて身体で覚えた表現でしょう。
相手との距離を遠ざけず、親しさと敬語は共存できているのです。

関西での経験しかありませんが、
子ども達に自然に伝えている敬語表現がどの地方にもあるかもしれません。

ならば、標準語での敬語が子どもに伝わっていないというのは、
大人たちの愚かさと怠慢であることは間違いありません。
関西での成功例を見れば、一目瞭然です、
子どもは、机の上で教えずとも、きちんと言葉は覚えていくものなのです。


他人事ように書いているけれど、
もちろん、人間せんせいも上記「大人」の代表的一員であります。

取り返しの付かないくらい長い間、
いい加減な大人をやってきた反省と謝罪をこめて・・・


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2010.07.23 


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